Upali(オスゾウ)の誕生
Upali は、Ceyla の 3 番目の子ゾウとして、1994 年 11 月 14 日、午前 3 時 15 分に生まれ た。姉ゾウは、Komali と Panang で、Upali の在胎期間は 日であった。
なぜ、Upali は、母乳を少しも飲もうとしなかったか?
Upali は、生まれて 週後に, Ceyla の乳を飲まなくなり、ますます落ち込んで (自閉的 になり) , 自分の鼻を吸うようになった. Upali の鼻に膿瘍ができるほど、Upali は自分の鼻をひどく吸った. ますます Upali の体 重は減少し, (立ったまま) 居眠りをし始めた. Upali は、横臥して寝るための充分な体力すらもなかった.
我々が、母ゾウ(Ceyla) に水を与える際に、Upali は、どん欲に水を飲み始めることが 顕著になった. しかし、Upali が Ceyla の母乳を飲もうとする努力は、だんだん少なくなった. 母ゾウ (Ceyla) は、自分の子ゾウが乳を吸う際に、子ゾウを邪魔する妙な癖があった. Upali が、乳を吸おうとするたびごとに、 Ceyla は、自分の肘で Upali を邪魔した.
Komali Panang (Upali の姉) が子ゾウだった時に、彼女たちは、母親 (Ceyla) の蹴りに よる痛みに眼を閉じて耐えながら、母乳を飲み続けた. しかし、Upali は、Ceyla の乳房から乳を吸うことをやめてあきらめた.
Upali の弟であるXian と Aishu もまた、この嫌がらせで確かに苦しんだ. しかし、彼ら は、どうにか彼らなりのやり方を獲得し、充分に母乳を飲むことができた. 4 頭のゾウが 写ったモノクロ写真 (左下) において、彼の大きな姉の Komali と叔母の Druk の間に、痩せこけた小さな Upali が写っている. 一番左端が、母ゾウの Ceyla である.
どのようにして、Upali を救うことができたか?
ルーディ・タナー(原著者のゾウの師匠) の指導の元に、我々は、哺乳瓶で Upali を育 てることを (人工哺育することを) 1994 年 12 月 24 日に決めた. ルーディ・タナーは、すでに、Upali の母親の Ceyla を人工哺育によって育てた経験を持っていた. しかし、お茶、米をドロドロにしたもの、乳脂 (クリーム) を混ぜて作ったミルクは、Upali に好ま しい結果を示さないようであった. そのミルクは 何度も ひどい下痢を招いた. 我々は, いろいろなものを混合したミルクを試した.
それで、好ましい (正しい) ミルクはどのミルクだったか?
子牛の哺育用ミルク(子牛用の粉乳) を Upali に試した時だけが 本当にうまくいった. Upali が、このミルクに慣れた後に、Upali は、嬉しそうにミルクを飲み始め、Upali の 体重は、ゆっくりと、しかし、着実に増え始めた. 我々は, 2 リットルの哺乳瓶を使って いたが、Upali は、時間をかけずに飲み干した. 昼間は、2 時間おきに 2 リットルのミル クを飲んだ.
我々は 夜中にミルクを与えなかったので 1 日の最初の朝と最後の夕方に 我々は, Upali の空腹を完全に満たすように努力して哺乳させた (1 日の最初と最後の授乳はしっかりと行った).
したがって、Upali は、1 日に約 15 リットルのミルクを飲んだ.
どのようにして、 を救うことができたか?
ルーディ・タナー(原著者のゾウの師匠)の指導の元に、我々は、哺乳瓶で Upali を育 てることを(人工哺育することを)1994 年 12 月 24 日に決めた。ルーディ・タナーは、すでに、Upali の母親の Ceyla を人工哺育によって育てた経験を持っていた。しかし、お 茶、米をドロドロにしたもの、乳脂(クリーム)を混ぜて作ったミルクは、
Upali に好ましい結果を示さないようであった そのミルクは 何度も ひどい下痢を招いた 我々は、 いろいろなものを混合したミルクを試した。
それで、好ましい(正しい)ミルクはどのミルクだったか?
子牛の哺育用ミルク 子牛用の粉乳 を Upali に試した時だけが 本当にうまくいった。Upali が、このミルクに慣れた後に、Upali は、嬉しそうにミルクを飲み始め、Upali の 体重は、ゆっくりと、しかし、着実に増え始めた。我々は、2 リットルの哺乳瓶を使って いたが、Upali は、時間をかけずに飲み干した。昼間は、2 時間おきに リットルのミル クを飲んだ。我々は 夜中にミルクを与えなかったので、1 日の最初の朝と最後の夕方に 我々は、Upali の 体重は、ゆっくりと、しかし、着実に増え始めた。我々は、2 リットルの哺乳瓶を使って いたが、Upali は、時間をかけずに飲み干した。昼間は、2 時間おきに 2 リットルのミル クを飲んだ。
我々は 夜中にミルクを与えなかったので 日の最初の朝と最後の夕方 我々は、Upali の空腹を完全に満たすように努力して哺乳させた( 日の最初と最後の授乳はしっかりと 行った 。
したがって、Upali は、1 日に約 15 リットルのミルクを飲んだ。
Upali は、母親 Ceyla と一緒に居たか?
(飼育係が、Upali を人工哺育していたけれども)Upali は、総ての時間を母ゾウとゾウ の群れと共に過ごした。なぜなら、Upali は、普通の子ゾウとして群れに残るべきであっ たし 我々飼育係たちによる擦り込み インプリンティング をされるべきではなかった 、Upali が、問題なくゾウの階級組織の中で成長して欲しかったし、後に社交的な (社会生活を営む)オスゾウに発育して欲しかったので、彼をゾウの群れの中に残してお いたことは、彼の素晴らしい社交性の発達(成長)のために、最も重要なことだった。
どうして、Upali は、チューリッヒ動物園から出なければならなかったか?
オスゾウの Maxie (Upali の父親) の元の飼い主であるロジャー・クロゥリーと、チューリッヒ動物園との間の契約事項に、最初に生まれたオスの子ゾウは、ロジャー・クロゥ リーに所有権があるという契約があった。ロジャー・クロゥリーは、この契約事項を忘れていなかったので、我々は悲しんだ(失望・落胆した )。Upali が 歳にもならないうちに、ロジャー・クロゥリーが、来園し契約 の遂行を主張した。我々は、できる限り長い間、さまざまな反対する理由をあげて、契約 遂行を延期するように努力した。
Upali は、イギリスで好評だったか?
それから、Upali が 2 歳半の 年 月 日に、ついに契約遂行の時がきた。ロジャー・クロゥリーは、チェスター動物園に Upali を売り渡したので、Upali は、イギリスに 向けて旅立った。
後になってから、オスゾウにとって素晴らしい(快適な)動物園を見つけ出すことが簡 単なことではない ということが解ったので、イギリスへ Upali が移動したことは、幸運だったと知った。チェスター市の人々、チェスター動物園とゾウの飼育係たちは、チューリッヒ動物園か ら子ゾウを受け取って、とても喜んでいた。
Upali は、チェスター動物園で暮らすことに慣れたか?
現在、Upali は、チェスター動物園において、彼にとっては新しいゾウの群れに完全に Upali とけこんだ。そして、Upali による新しい繁殖プログラムが、準備されつつある。
チェスター動物園で 、2006 年 11 月 12 日に、Upali の子ゾウ (Sithami)が生まれたので、 Upali は、初めてお父さんになった。
これらの写真は、チェスター動物園における Upali とSithami である。